これからの「性器」の話をしよう ——いまを生き延びるための感覚論

桃源郷ZINEに投稿した文章を公開するだけのブログ

これからの「性器」の話をしよう ——いまを生き延びるための感覚論[前編]

※警告※
 タイトルから推察されるようにこの文章では性器に言及する箇所がありますまた排泄に関連する内容もありますこうした事前に注意喚起が必要なところでは章タイトルの右側に「(※)」と記してありますので、ご参考にしていただければと思います。

第1章 嘆かわしいことをする

 自分がノンバイナリーとしてこのような語りをするのは最初で最後かもしれない。いわゆる「Ft系」だという前提を明示することは、もう二度としたくない。この名義もこの文章でだけ。とはいえ、どこかでは書かなければならないことだということも理解はしているので、この機会に認知向上というやつをしてみようと思う。が、いろいろと苦しくて締切りは超過しているし(これはただの言い訳)、文体(あとたぶん文章そのもの)もなんだかヘンテコになってしまった。正直、不特定多数の目に触れる可能性がある文章としては失格だと思っている。できることならもう少し特権性を差し引いた文章にしたかったしすべきだったのだが、これしか絞り出せなかった。
 なにはともあれ、話を始めたい。ノンバイナリーの言葉は少しずつではあるものの流通するようになってきた一方で、少なくとも日本語圏のノンバイナリーの表象はまだまだ偏っているのが実情だ。「Ft系」や「Mt系」であることと折り合いの付く人がいるのはそうなのだろうが、t以前は特定されたくないという態度もあり得るはずで、にもかかわらずそうやって存在できたり存在している人はとても少ない。だからこそ、さまざまなノンバイナリーが存在することを提示するうえでは、t以前の存在を自明視する語り方ばかりが流通していることに異議申し立てをする必要があると考えたこともこうして明かしたくもない情報を明かしている理由のひとつだ。明かさずに語ることもできなくはないけれど、ここでそれをやればきっと抽象的で空回りするものになってしまうだろうと思うから。
 しかしながら、「Ft系」という発想を拒絶するからといって自分の身体との付き合いがうまくいっていないわけではない。むしろ、後述するように自分の身体との付き合いは医療的介入を含めてそれなりにうまくできているほうだとさえ思っている。端的に、この身体にラベルを貼られること、あるいは「Ft系」として自分を表象しなければならないことが受け入れられないだけ。医療的介入によって諸々「中途半端」な状態ではあるものの、自分の身体がノンバイナリーだとも思っていない。ただの人体で、それ以上でも以下でもないという感覚なのだと思う。

第2章 最大挫折原点

 話が逸れるようだが、自分がどういう経緯でノンバイナリーというラベルを引き受けるに至ったか、少し順を追って説明することにする。
 そもそも自分がシスジェンダーではないことを認めざるを得なくなったのは、「自分は女性にはなれないんだ」という挫折感が原点だった。不思議なことを言っていると思う人もいるかもしれないが、一見した「パス度」は完璧だったはずなのに[1]、どれだけがんばっても女性になれないし、なれる気がしなかった。自分がシスジェンダー女性として生活することはいわば「女装」をしているような感覚で、「装う」ことはできてもそれはあくまでも装っているだけであり、実態にはなり得なかった。そういう感覚、そうとしか言えない感覚である。
 同時に、女性になりたかったわけではないもののフィクションやファンタジーとして女性性を装うことは楽しくもあったし、そうした虚構だけで人生を塗りつぶすことはできないと受け入れるまでに時間がかかったのも事実だ。自分が自分として生きてしまえばこれまで長年続けてきたことも続けられなくなるかもしれないという不安や(この不安はある意味では的中した)、女性になれないとはいえ男性という自認があるわけでもないからどうしたらいいのかまったくわからなかったし、なにより、当時はノンバイナリーという言葉も知らなかった(シスジェンダーという言葉さえ知らなかった笑)。自分の性別がわからなかったし、願わくばすべて思い違いで、自分はシスジェンダーであってほしかった。ただでさえ義務教育ドロップアウト[2]で、子どもの頃から精神的な問題も抱えていて、この社会でどう生きていけばいいのかわからないのに、これ以上「ふつう」ではない属性が増えて先例や情報が少なく得づらいがゆえにどうしたらいいのかわからなくなるようなことにはなってほしくなかった。
 それでも、空を飛ぼうと思っても飛べるようにはならないように、女性にはなれなかった。人間が鳥ではないように、自分も女性ではなかった。それくらい明確な挫折感が、自分がシスジェンダーではないことを自分自身に受け入れさせたのだった。ネットで見かけた「Xジェンダー」というやつなのかもしれないと疑い始めていた頃の話である。

第3章 身体は物質以上のものか?  (※)

 第一章の最後で、自分の身体がノンバイナリーだとも思っておらず、ただの人体という感覚なのだろうと述べたがそれは、言い換えるのであれば、自分にとって身体はさまざまな器官や組織の集合体でしかないという認識なのかもしれない。医療の介入によって二元的な身体区別からすれば「中途半端」な状態にあえて留まっている今は余計にそう思う。この話をするために、以下ではトランジションの現状や希望も含めて自分の身体の状況について説明したい。
 トランジションについて端的に言うのであれば、乳房切除を行い、現在はテストステロンの投与をしている。SRSは希望していない。前者は保険適用で[3]、乳頭乳輪は切除したまま(おそらく乳腺と一緒に医療廃棄物になった笑)。後者による身体的変化で自覚があるのは、月経の停止、声変わり、髭が生える、陰核肥大くらいだろうか。自分がどこまで医療の介入を望んでいるのかよくわからないので基本的に行き当たりばったりというか、自分が自分であると感じられる範囲に自分を連れて行けるように、その範囲を押し広げられるように手探りを続けている。
 まず前者、胸オペに関連することから詳述してみたいのだが、オペ以前は胸が大きく、潰しても隠せないだけでなく身体を締め付けるのも嫌いでブラトップを使用していた。我ながらかたちも綺麗でとてもエロくて好きだったのだが、自己の一部という認識は乏しく、加えて運動の邪魔でひどい肩凝りの原因でもあったため[4]、切除一択だった。乳頭乳輪を切除したままにしてあるのは、どうせバイナリーなジェンダーとしては生きられない、すなわち、社会で「ふつう」と想定される人間にはなれないのだから「人間=乳首がある」というような前提=当然視される事柄を採用する必要はないと思ったこと、また今後生活していくうえで(避けられるだけ避けるとはいえ、SRSを予定していない以上)例えば「女湯」しか選択肢がないときに傷痕だけの状態のほうが何らかの「事情」があると勝手に推察してもらえるのではないかと考えた点が大きい。
 つぎに後者、ホルモン投与については、諸事情あっていわゆるジェンクリではないところで打っている。一念発起するまでに時間がかかったし、ある種投げやりな気持ちで始めたような部分もあるのだが、多少の声変わりだけが当初の目的であった。というのも、パンデミック以降オンラインでの人間関係が大半を占めるようになったことで、(服装や振る舞いがほとんど機能せず自らのジェンダーを体現することが困難であることを理由に)カメラはオフにできてもマイクはそうはいかないこと、どう足掻いても声による「判断」から逃れられないことを痛感せざるを得なかったから。人生のなかのタイミングの問題(経済面で無茶をしてでも今のうちにやっておいたほうがよさそう)もありつつ、自分のものではない声を自分のものだとされることに辟易していた。自分自身の声を持っていないこと自体は、借り物というか代替品としての声を持っていたのでさほど気に留めてなかったが、悲しいかな、社会で生きるうえではそうもいかなかったのだった。
 けれども、ホルモン投与は思わぬ副産物ももたらしてくれた。のちに触れるようにジェンダーを理由に月経の存在自体を気に病んだことはあまりないのだが、重かった月経が止まり[5]、髭はいらなかったが、陰核は肥大した。ベースの精神状態が良くなったこともうれしい誤算ではあるものの、保険適用外の医療的措置(副作用の確認のための血液検査等を含む)を続けることは負担でもあり、いつまでどうするかについては決めかねている。まさに行き当たりばったりである。
 さて、これでやっと本題に辿り着けるのだが、自分の身体との付き合いが楽になった決定的な出来事は陰核の肥大化を観察したことだった。これが本当に興味深くて、人体って面白ぇという感じである。どういうことかというと、いわゆる成長期を終えたあとでも皮下脂肪や筋肉以外で見るからに身体の形状が変化するのを目の当たりにすることで、もとより運動経験を通じて築いていた人体の可変性のようなものへの信頼に加えてもう一段階べつのなにかを直感することができたのだ。強固な物質性をともなって理解されがちな身体が、まるでどうしようもなく変え難いものだと思われがちな身体が、じつは思い込んでいたよりもずっと可変的だということを体感できたことは、頓悟したような気にさせてくれたのだった。

 それだけでなく、このなかなかにときめく経験は性の分化について考えるきっかけにもなった。というのも、陰核が肥大していくのを見ながら(ペニスがある人の大半は)こうして胎児の頃にペニスが形成されていくのねと実感したことで、だから尿道がこんな辺鄙なところにあったのかと納得するとともに(もうちょっと違うところにあってもよかったのではないかとずっと思っていた)、性はあくまでも分化するものだということを理解できたのである。性分化以前の、妊娠初期半ばまでの胎児の存在を考えれば当たり前なのだが、オスもメスも同じ物体=人体から性分化するのであって(だから「分化」と呼ぶのだろうけど)、どう性分化しようがしまいが元は同じで人間としか言いようがないというか。つまり、性分化というのは人間の身体にとっては装飾品のようなものだというか、英語文法で言うところの副詞節や副詞句のようなもので、副詞がなくても文章は成立するように、性分化は人間のあり方を決定付けるものではないし、どのようなかたちで性分化してもそれは物質レベルで等しく人間という生き物だということ、人体は人体であるという至極当然のことに思い至ったのだった。これは自分のなかではけっこうなゲームチェンジャーで、なんだノンバイナリーとして存在できるじゃんという気分になれたことで大いに気が楽になった。
 そして、性分化したあとの「Ft」系たる自分の身体については以下のように考えている。まず、膣は肛門と同じで性的な用途でもちいることもできる排泄器官だと捉えている。月経[6]があれば経血を排泄するし、そうでなくても分泌物を排出する。月経は不要になった子宮内膜が剥がれ落ちるときに起こる出血でしかなく、またそれ以外の分泌物は膣を健康な状態に保つうえで必要なもので、口内における唾液のようなものと理解できる。結局、自分にとって膣とは、肛門と同じで指でも何でも突っ込める人体の開口部でしかなく、排泄に必須で、拡張できて、性行為にも活用できる、ただの器官でしかないのだ。
 また調べたところ、子宮は内側から子宮内膜、子宮筋層、漿膜(「しょうまく」という読み方が一生覚えられん…)で構成されているらしく、その漿膜は「体腔の内面や内臓器官の表面をおおう薄い膜」(by コトバンク)であり、子宮筋層は消化器や呼吸器にもある平滑筋という筋肉が大部分を占め、子宮内膜は粘膜とのことで、子宮はどうやらその大半が筋肉でできた袋のようなものだと理解できそうだった。よくよく考えてみれば女性ジェンダーと結び付けられがちな「子宮」関連の事柄は、卵巣が機能していなければ成立しないものばかりなのだから不思議はない。
 さらに、自分にとって膣は排泄器官であると同時に排泄補助器官である。胸オペの何年か前に思い付いて以降とても便利なのだが、膣に指を入れて下に押すことで排便を補助できるという事実は一般に広く知られてもいい事柄なのではないかと思っている。ついでにタンポンや月経カップ[7]の位置も調節できて一石二鳥なのだ。もちろん衛生的な理由から使い捨ての手袋はすべきであるし、この手段をもちいるのは必要最低限に留めることをおすすめする(あまりやりすぎると排便のときの力の入れ方がわからなくなる…)。ただこれにより、俗に言うウォシュレット浣腸以外にも便秘や残便感を解消する術を得たことは誇張なしに自分のQOLを爆上がりさせた。もしも生まれつきペニスがあったらそれはそれでいいかなと思う一方で、膣がある身体に生まれてきつつペニスが自分の身体の一部であることを望まないのは[8]、こうした実利的な側面も大きいというのが正直なところである。

[中編]につづく…かも!

[1] 対面の世界では完全にシスジェンダー女性だったはずだが、オンラインの匿名空間では女性として女性らしいハンドルネームで可愛い顔文字まで多用していたにもかかわらず男性だと思われていたこともあった。自分がシスジェンダーではないと気が付く前から若干の齟齬は発生していたのだろうと思う。

[2] 中学校でいじめに遭い不登校になるという定番コースを辿り、高校卒業時の学力も相当低かった(正直今も「受験」的な能力ではダメだろうと思う)。その後紆余曲折あり学位は取得しているし、幸か不幸か結果的にはいわゆる高学歴というやつになってしまったが、英語の文構造を理解できるようになったのが成人後だったりと経験値=訓練量が足りなさすぎて未だに喘いでいる感はある。ジェンダーにおいても、シスジェンダーのように直線的で寄り道や回り道の少ない生き方は(したくても)できないと感じるが、それ以外のところでもどうにもならない人生なので、他で散々悩んだぶんトランジション面で時間をつぎ込むことへの葛藤はそこまでなかったのではないかと思う。

[3] ホルモン投与をするかどうかでぐずぐず悩んでいるうちに法制度が変わっていたので先に手術を受けることにした。なお日本国内の現状を鑑みるに、実家が都内にあるため通院面での苦労が少なかったことは間違いない。

[4] 大きすぎる胸は健康被害をももたらすため、乳房の縮小手術についてはジェンダーを問わず保険適用にすべきという立場である。

[5] 月経でもっともつらかったのは膣の痙攣なのだが(床でのたうちまわって叫び出したいような痛みだった)、当然痛み止めだけでは日常生活を送ることができないため婦人科(という名称は本当にどうかと思う)で処方されたブスコパンを飲んで凌いでいた。ちなみに、婦人科の受診は待合室で多少気まずいくらいでそこまで抵抗はないタイプで、これはおそらく10代前半から中盤にかけて性的に荒れた生活をしていたときに身に付いたリスクと健康の管理という感覚からきているのだろうと思う。必要が生じて「性別違和」に言及したときも「あ、そうなんだ」くらいの反応で、(仄聞する限り幸運なことに)嫌な思いをさせられたことも今のところない。

[6] 「生理」という表現のほうが一般的なのだろうと思いつつ頑なに「月経」とするのは、女性ジェンダーに結び付けられがちな月経の意味での「生理」がありつつ、「生理的に無理」というような場面でもちいられる「生理的」という表現が存在し、それがまさに「ヒステリー」の語源がそうであるようなし方で機能していると考えているからである。つまり、「ヒステリー」の語源は「子宮」を意味するギリシア語で未だにミソジニーな考え方と結び付いているが、理屈ではなく感覚的なさまを表現する意味での「生理的」が女性ジェンダーと関連させられることへの抵抗として「月経」という表現を選んでいるという感じ。

[7] 運動の関係と、単純に苦手ということもあり、年齢一桁時代(?*)からナプキンよりタンポンを使用してきた。月経は止まったが、「おりものシート」代替目的で現在は月経カップユーザー。圧倒的コスパと、なにより紐がないことで広義のタンポジ=タンポンのポジションを気にしなくてよいのがいい。ちなみに狭義のタンポジは膣内でのタンポン本体の位置のこと(慣れると狭義でミスすることはほとんどなくなる)。
*編集時注

[8] 現代の医療では実現不可能だろうと思ったので二者択一な書き方をしてしまったけれど、膣とペニスがいずれも一般的な形状で備わっているという形態があってもいいはずだよね。